素晴らしい歌唱力や個性を持ちながら1枚のアルバムしか残さなかったシンガーたちにスポットライトを当てる「One Shot Wonder」シリーズの第三弾である。第二弾キャロル・クレヴェリング唯一のアルバム『ヒア・カムズ・キャロル・クレヴェリング』(XQAM-1021)は内容の素晴らしさだけでなく、もともと稀少性が高かった上にこれまた入手困難だったシングル盤の2曲を加えたことにより大きな話題となったが、『ハーフ・パスト・ロンリー』はキャロル・クレヴェリング以上のレア盤、それも激レア盤といって間違いない。
キャロル・クレヴェリングの場合は、本人に関する情報がほとんどないというミステリアスの存在だった(*)し、発売元もロス郊外ラグナ・ビーチのEuterpeanというこれまた謎のレーベルだったが、まがりなりにも通常の販売ルートに乗った。一方、フロ・ベネットの『ハーフ・パスト・ロンリー』(Gift GLX-711)は本人が友人や知人にプレセントしたプライベート・サーキュレーション・オンリーのレコードだったので、幻度はさらに高い。
(*)『ヒア・カムズ・キャロル・クレヴェリング』をリリースした時点で、キャロルが存命なのか鬼籍に入ってしまったのか、存命ならどこに住んでいるのかまったく不明だったが、9月になって健在であることが判明した。キャロルは今も南カリフォルニアで元気に暮らしており、アルバムを吹き込んだ当時は18歳だったという。ということは今年(2007年)ちょうど70歳になるわけだ。
SSJレーベルからリリースされたCDのオリジナルLPとシングル盤はラグナ・ビーチにあったレコード店のオーナー夫妻がキャロルの将来性を見込んでプロデュースしたものだが、キャロルは結局ショウ・ビズの世界に足を踏み入れることはなかった。
フロ・ベネットの『ハーフ・パスト・ロンリー』に話を戻そう。録音は1962年、完成は1963年である。当時フロは作曲の勉強をするために、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の作曲コースを履修していた。アルバムを作るにあたりクラスメイトの作品を渉猟したが気に入った曲に出会えず、かといって、エラやシナトラほか多くの大先輩たちがすでに吹き込んでいる曲を二番煎じ的に吹き込む気にもなれなかった。それで、仕事仲間であり友人であるソングライターたちに声をかけた。彼らの作品の中から気にいったものを選び出し若干のスタンダードを交えたのが本作のラインナップである。選定の基準は、歌詞に感情移入ができるか否かだったという。アルバムのコンセプト<ハーフ・パスト・ロンリー>は時刻の表現(たとえばhalf past one=1時半)をもじった「だんだん寂しくなってきた」という意味合いだ。英語にこのような慣用句はない。これはUCLA作曲コースの講師ハル・リーヴィーのアイディアで、曲はフロの友人スキップ・レッドワインが書いた。レコーディングは、フロが仕事でよく使う有名なRadio Recordersで行われ、伴奏陣は、後年フランク・シナトラの「夜のストレンジャー」の編曲でグラミー賞を受賞することになるアーニー・フリーマン(p)がリーダーとなり、プラス・ジョンソン(sax)やアーヴィング・アシュビー(g) ほか、仕事仲間である優れたミュージシャンが多数協力してくれた。
フロ・ベネットはコロラド州デンヴァーの出身だが、生年月日は不詳。15年ほど前にロスから同じカリフォルニア州のパームスプリングスに移住し、この地にある有名な「ラケット・クラブ」などで今も時々歌っている。推測するに70歳前後だろうが、まだまだ元気いっぱいだ。
フロは音楽に囲まれて育った。父親はデンヴァー地区で2つのナイトクラブを経営しており、母親ともどもピアノを弾いた。また親戚にはバンド・リーダーもいたという。フロも幼少からクラシック・ピアノを習い読譜力をつけたことが、のちに大いに役立つことになる。早い時期から歌手を目指し15歳未満という年齢を隠して雇ってもらったコロラド・スプリングスのビングバンドでの仕事がプロ・デビューだった。デンヴァーのイースト高校やコロラド大学の在学中機会あるごとにステージに立ったが、大学を1年で中退してロスを目指し、グレンデール地区に落ち着いた。
向上心の旺盛なフロは表現力を身につけようと演劇も学び、ロス地区でいろいろなストレート・プレイやミュージカルに出演してそれなりに名の知れた女優となり、主役をはった『The Wounded Dove』は9ヶ月のロングランを記録したほどだ。
結婚後は、多くの女性シンガー同様、家事と子育てでキャリアを中断したが、息子が4歳になった時にカンバックを果たし、その後はクラブ等のライヴ・シーンで活躍する一方で、デモ・シンガーとしてその世界では第一人者となった。
シンガー=ソングライターが音楽業界を席巻する以前の時代にあって、ソングライターが自作を売り込むには、その曲を吹き込んでくれる歌手、つまりデモ・シンガーを必要とした。楽譜ではダメで、音として聞けることが重要だった。それは、レコードが普及する以前、ティンパン・アレイの時代に楽譜店が歌手やピアニストの実演で楽曲をアピールしその楽譜を販売していたことと相似する。
デモ・シンガーには、どんな曲でも即座にポイントを理解し作曲家の意図に沿って、しかもソングライターが望む歌唱スタイルで歌える能力が求められた。デモ・シンガーは音楽業界の外ではあまり知られていないが、業界人にとってはなくてはならぬ存在であり、同時にデモ・シンガーの優劣が楽曲を売り込む際に大きく影響した。フロはソングライターたちに頼られていたひとりである。
フロの1日は電話のベルで始まった。ライターは自作の歌を電話越しに口ずさみ「ローズマリー・クルーニーのように歌ってほしい」、時には「トニー・ベネット風にやれるかい?」と注文する。フロが「出来るわよ」というと、その日のうちにロス郊外サンフェルナンド・ヴァレーにあるStar GoldあるいはRadio Recorderといったスタジオに入り、短時間でレコーディングを完了させる。的確に、しかし出来るだけ早く安くがポイントである。幼少時にピアノ・レッスンを通じて身につけた読譜力がここで大いに役立った。
フロは、また、ハリウッドからもしばしば声がかかり有名女優たちの吹き替えも数多く行ったし、コマーシャルの世界からもしばしば声がかかった。
なお、フロは日本に1か月滞在したことがあるという。今から20年ほど前で、息子がビジネスで日本に出張した時に一緒に来日してすっかり日本贔屓になった。それだけにフロは今回のリリースをいっそう楽しみにしている。