キャロル・クレヴェリングの名を知っている人は相当のヴォーカル・ファンだし、彼女のデビュー・アルバムにして唯一のLPを所有している人はおそるべきコレクターといえる。では「キャロル・クレヴァリングって、どんな人?」と問われても、彼女のプロフィールはまったくといっていいほどわかっていない。まさに「幻の歌手」の称号に相応しいが、苦し紛れに(?)、彼女はキャロル・スローンではないかと実しやかに語られていた時期もあった。
このスーパー・レア級の幻のアルバム『ヒア・カムズ・キャロル・クレヴェリング』(米 Euterpean ET 1001)がついにCD化されることとなったが、どうせ出すならと、翌56年のシングル盤(ETP45-5001)の2曲も追録される。アルバム・タイトルには「Vol. 1」となっているが、以上の14曲がキャロルのすべてのようだ。
以下は、アメリカのジャズ評論家/プロデューサー/ライターのビル・リード氏による、キャロル・クレヴェリング追跡の旅である。
最近1950年代のジャズ歌手キャロル・クレヴェリングに夢中になっている。映画『市民ケーン』でオーソン・ウェルズが死の間際につぶやいた意味不明の言葉「ローズバッド」ではないが、彼女はまさに謎に包まれた存在である。
2006年12月、私は東京の「ボーカルを楽しむ会」に出席して、「1枚のアルバムで消えてしまった素晴らしいシンガーたち」というテーマで、発表会を行った。彼ら彼女らが1枚で消えてしまった一番の原因は、ご承知にように、1950年代半ばに巻き起こったロックという“津波”にある。その犠牲者は265人に及ぶが(現在さらに捜索中)、”One Shot Wonder”と題して、その中から1枚で終わってしまったが大変に素晴らしいシンガーたちを14名紹介した。いずれも次代のシナトラやエラを夢みながら、その後は各地のホテルなどを転々として歌うだけで、2度と再びレコーディングの機会に恵まれなかったシンガーたちである。
キャロル・クレヴェリングは、“One Shot Wonder”リストの中で最重要のひとりである。それは、才能的にトップクラスとはいえなくとも(実際にはかなり上手いシンガーだったが)、彼女のアルバム“Here Comes Carole Creveling”がコレクター市場に出ると相当の値段になるからである。タイトルには“Volume One”とついているが、続編は作られなかったはずだ。もし存在するなら、音楽的な興味に加えて、将来の養老年金のためにも是非1枚入手したいところだ。
このアルバムの裏を見ると、「キャロル・クレヴェリングとはどんなシンガーか?」との問いがあるのに、彼女の紹介はない。著名なジャズ評論家のナット・ヘントフは『ダウンビート』誌1956年1月25日号のアルバム・レビューで「前途洋々たるシンガーなのに、ライナーは彼女のことに一切触れていない」と不平をもらしている。このオリジナル・アルバムが現在非常な高額なのは、アルバム自体の稀少性に加えて、キャロル・クレヴェリングが謎の存在であるからだ、ともいえる。
ナット・ヘントフは先のレビューで書いている。「キャロルはちゃんと歌えるシンガーだ。ギミックを弄する必要はない。品格もあるし、全体を通してフレージングも合格だし、声はハスキーで軽く快い」。そして、シナトラとも共演したギタリストのジミー・ワイブルにも言及し賞賛している。私の知る限り、このレコードと彼女について言及した当時の記事はこれ以外にはなく、キャロルのことを知る手がかりはまったくない。冒頭で述べた「ボーカルを楽しむ会」で彼女のことを紹介しなかったのは、語るべき材料がなかったからである。そして帰国後、この幻のシンガーのことを調べようと決心した。
まず、アルバムのサイドマンだったジミー・ワイブル(g)に電話を入れた。ワイブルはいくらか解明の糸口とはなったが、半世紀以上も前のセッションゆえほとんど記憶はなく、覚えていたのは「メガネをしていた」「母親が付き添ってきた」「確かルイジアナの出身だった」程度であった。1955年に起こった別段記憶に鮮明に残る出来事ではなかったのだろう、仕方のないことだ。
それでもワイブルの記憶は、当時同じようにスタジオ・ワークで多忙だったふたりのミュージシャン、すなわちマックス・ベネット(b)やチャック・フローレス(ds)よりはましだったといえる。ふたりは、このアルバムの翌年に、ルー・リーヴィー(p)と、キャロルのシングル吹き込みに参加したが、何も覚えていなかった。
「Creveling」(由来はオランダ語のGrevelink)という姓は珍しいので電話帳から辿ることにした。アメリカすべての電話帳を見ても317しかなかった。この中から「キャロル」を頼りに絞っていくと、カリフォルニアの電話帳に「キャロル・クレヴェリング」を発見したので、さっそく手紙を出した。が返事はなかった。いろいろなクレヴェリングにEメールや電話でコンタクトをとったが「謎の彼女」にまで行き着くことは出来なかった。家系図に詳しいクレヴェリング姓の女性にコンタクトがとれたところ、返事をくれなかったキャロル・クレヴェリングは彼女の姉妹だという。だが「私のキャロルはシンガーじゃないわ。学校の先生でした」。
ジャズ関係の研究機関を訪れ、アルバムに関係したミュージシャンやソングライターにもコンタクトをとったが、収穫はなかった。インターネットも然り。次はアルバムをリリースしたレコード会社からアプローチすることにした。アルバム番号(ETP-101)から見て、キャロルのアルバムは、ギリシャの音楽のミューズからとったEuterpeanという名のレーベルのアルバム第一号であろう。ジャケットの裏には、このレーベルの所在地がロスの南25マイルのラグナ・ビーチとある。ラグナ・ビーチを拠点としたレコード会社はほかにはなかったと思うが、2007年5月の始め、私は海岸沿いにあるこのアーティスト・コロニーを目指した。
現地の公立図書館へ行き、1955年ごろの電話帳にCarole Crevelingを見つけた。そして同じ住所にGeorge W. and Florien Creveling。キャロルの両親だろうか? しかしその住所にCreveling姓の家は存在しなかった。アルバム・カバーのように、キャロルが海から現れることを半分期待していたが、願いは見事に打ち砕かれてしまった。ラグナ・ビーチへの調査旅行の収穫は、Carol CrevelingとEuterpean Recordsがかつてあった場所を写真に収めたことだ。

453 Shadow Lane, Laguna Beach, CA Carole's in 1956

Euterpean Records at 506 S[1]. Ocean BL, Laguna Beach, CA
キャロル・クレヴェリングは、ショウ・ビジネスという海に足の指先をちょっと浸したが、水が合わなかったのだろうか。そのうち結婚して中西部あたりに移住して、どこかの高校で音楽を教えたのだろうか?私は、今も彼女のキャリアについて知りたいと思っている。彼女のキャリアを知ることは、1950年代後半から1960年代前半のジャズの世界に光を投げかけることになるはずだ。
キャロル・クレヴェリングは健在なら70歳代半ばだろう。いつか彼女を見つけ出したい。そして、今後何か進展があれば、下記のブログに書き込んでいくつもりだ。
The Case of the Phantom Singer:
http://carole-creveling.blogspot.com/
(ビル・リード)