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TOPSinatra Society of Japan presentsスタンダード・ヴォーカル・アルバムの復刻・発掘>『アンド・アイ・ラヴ・ユー・ソー』 /ペリー・コモ

『二人でお茶を+1』/
ビヴァリー・ケニー
Snuggled On Your Shoulder/
Beverly Kenney
特別価格
 (XQAM-1003)
Cellar Door 原盤
1954年頃録音 世界初登場
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   可憐な容姿と歌声で今も人気絶大なビヴァリー・ケニーの未公開音源を世界に先駆けてリリース! ルーストからデビューする直前の、素朴で飾らない素顔が垣間見られる貴重な記録である。  
 


1. Tea For Two/二人でお茶を>>試聴
2. There Will Never Be Another You/ゼア・ウィル・ネヴァー・ビー・アナザー・ユー>>試聴
3. The Things We Did Last Summer/過ぎし夏の想い出>>試聴 
4. Moe's Blues/モーズ・ブルース>>試聴
5. Can't Get Out Of This Mood/キャント・ゲット・アウト・オブ・ジス・ムード >>試聴
6. The Surrey With The Fringe On Top/飾りのつぃた四輪馬車>>試聴
7. Snuggled On Your Shoulder/スナグルド・オン・ユア・ショルダー>>試聴
8. That's All/ザッツ・オール>>試聴
9. Ball And Chain (Sweet Lorraine)/ボール・アンド・チェーン>>試聴
10. A Foggy Day/霧深き日>>試聴
11. Gay Chicks/ゲイ・チックス (ボーナス・トラック)>>試聴
 

  ビヴァリー・ケニーは1932年1月29日にニュージャージー州のハリスタウンで生まれた。シンガーを志した1950年頃のビヴァリーにとって前途は明るいものだった。ビートルズが登場するのはまだ先のことだし、クリス・コナーやジューン・クリスティ、ジュリー・ロンドンら少し先輩にあたるシンガー同様の栄誉を勝ち得るように見えた。ジュリー・ロンドンは1957年のインタビューの中で、ビヴァリーをペギー・リーやエラ・フィッツジェラルドと並んで大好きなシンガーのひとりに挙げ、「きっと今年はビヴァリーの年になるわよ。彼女のフレージングは本当に素晴らしい。音程は正確だし、まるでミュージシャンのように歌えるわ」と評した。  
ビヴァリーは、ピンナップ・シンガーのジュリー・ロンドンに匹敵する美貌の持ち主であった。ビヴァリーのやや柔和な歌声はビリー・ホリデイに似ている。もしビリーがあと10年遅れて生まれてきたなら、テディ・ウィルソンやルイ・アームストロングではなく、ジェリー・マリガンやレニー・トリスターノ、スタン・ゲッツといったクール派のミュージシャンを聴いただろうし、ビヴァリーのような歌い方になっていたかも知れない。  
その後の2年間は、ジュリー・ロンドン同様の賛辞が『ダウンビート』誌をはじめとする音楽やショウビズ関係の有力雑誌に次々と登場した。「サラやビリー、エラと同じく、本物のジャズを歌うニュー・ヴォイス」「ジャズ・ヴォーカル界の新発見」「まだ新人だが才能と可能性は十分。長く第一線で活躍するだろう」等々。しかし、1960年にすべてを終えてしまったビヴァリーを知る我々にとって、この最後の言葉は皮肉としかいいようがない。  
ビヴァリー・ケニーが自殺してから40年以上の年月が経った今、彼女のことを知ろうとしても多くは推測の域を出ないが、2005年初頭、私はある人物からEメールを受け取った。彼はビヴァリーの最後の恋人で、彼女が28歳で自ら命を絶つまでの2年ほど交際していたという。私のブログを見て、電話がほしいとメールを送ってきたのだ。  
以下は彼が語るビヴァリー最期の日々である。
  “ビヴァリーは前に少なくとも一度、自殺を試みたことがあったし、自殺を恐れてニューヨークのベルヴュー・ホスピタルに進んで入院したこともあった。最後の数カ月は精神医の治療を受けていた。あの頃のビヴァリーは、ロックのせいでクラブでの仕事がほとんどなくなり、無一文だった。そんなこんなで、ボクらの仲は疎遠になり、彼女は出て行ってしまったが、それでもコンタクトは続けていた。4カ月ほど経ったクリスマスの頃、恋人という関係はもう終わっていたが、電話で彼女を誘い飲みに出かけた。それからさらに数カ月、ふたりが恋人同士だったことを知っている共通の友人がニュージャージーにあった私のオフィスに不意に現れた。「ラジオでビヴァリーが自殺したことを聞いた」という。私のショックがあまりに大きかったので、彼はヴィレッヂの家までクルマで送ってくれた。家の郵便受けを見ると、彼女からの封書がつっこまれていた。「私は本当にあなたのことを愛していました。でももう限界です。あなたのせいではありません。悪いのは私なのです」。”

  一方、1959年にスカーレット・オハラ以来といわれる1万人を超える候補者の中からアンネ・フランクの役を射止めた女優ミリー・パーキンスの思い出の中には、自殺願望のビヴァリー・ケニーは出てこない。それほど昔のことではないが、私はハリウッドのコーヒー・ショップでミリーにインタビューをした。
“まだ若かった頃、ニューヨークでモデルをやっていました。ヴィレッヂに住んでいましたが、あの頃(1950年代中頃)のヴィレッヂはみんな気さくで顔見知り。ワシントン・スクエア・パークで知り合ったビヴァリーは私の庇護者でした。私はビヴァリーの歌が大好きでしょっちゅう聴きに行きましたし、映画に行くのも食事をするのもいつも一緒でした。私がニューヨークに出てきて初めてそれもひどい高熱のインフルエンザにかかった時には、熱い紅茶をつくってレモンを入れ、グラスいっぱいのスコッチを差し出して「さあ飲んで。明日は大丈夫よ」と懸命に介抱してくれました。おかげで次の日にはかなりよくなり、それからはインフルエンザになると必ずこの方法で治しています。でも、『アンネの日記』のスクリーン・テストでカリフォルニアに来てからはもう会うことはありませんでした。”
 
  インタビューの間ずっと、ミリーは何か見えないものを見ているような様子だった。ケネディ大統領が殺されて数週間経った頃から、ミリーはビヴァリーの霊を強く感じるようになったという。ビヴァリーの気配に耐えられなくなったミリーはとうとう叫びを上げた。「ビヴァリー、もうあっちへ行って!」。その以来、ミリーがビヴァリーの幻影を見ることはなくなった。  

今回リリースされるこの貴重なデモテープに関して、私が知っていることはきわめて限定的である。私は、ビヴァリーの最後のマネージャーだったイヴァン・モーガルや、ビヴァリーの遺族、さらに伴奏者のトニー・タンブレロの未亡人に問い合わせたが、新たな情報は何も得られなかった。 最後に収録されている「ゲイ・チックス」はビヴァリーの友人だった人物が送ってきたSP盤でその存在を知ったものだが、幸いキンボー・エデュケーショナル社からライセンスを受け、以前から持っていたSPよりは状態のよい音源を使用することが出来た。

   (ビル・リード)



 
  ビヴァリー・ケニーは1955年録音の『ビヴァリー・ケニー・シングズ・フォー・ジョニー・スミス』(ルースト)を皮切りに、同レーベルに3枚、そのあとデッカに3枚の計6枚のアルバムと若干のシングルを残して、1960年4月13日に自殺してしまった。芳紀28歳であった。類まれなる美貌とハスキーな歌声でわが国では今も絶大な人気を保っており、それだけに未発表録音の存在を夢見てきたファンは少なくないはずだ。
  本作は、ビヴァリーがレコーディング・キャリアを築くべく、多分1954年にトニー・タンブレロのピアノ伴奏で吹き込んだデモ録音である。ビヴァリーの場合、残された音源がきわめて少ないこと、このデモ・テープの10曲は歌も音質も鑑賞する水準をクリアしているとの判断から、世界で初めて陽の目を見ることになった。10曲中6曲はその後ルーストに録音することになるが、このデモ録音では歌とピアノというシンプルな仕掛けと周囲に気兼ねする必要のない雰囲気の中で行われたようで、よそ行きではないビヴァリーの寛いだ素顔を捉えている点でも貴重な記録といえる。中でも、Dのヴァースで音程を間違え、思わず発する彼女のハスキーで愛らしい声に心ときめくリスナーは多いことだろう。
加えて11曲目に、タップダンスの練習レコードとして同じ頃に吹き込まれた珍品レコードを収録した。ただし、78回転からの転写なので、音質的にはご容赦いただきたい。  

トニー・タンブレロはラルフ・シャロンを起用する前のトニー・ベネットのピアニストで、ほかにもジュディ・ガーランドやジュリエット・プラウズほか一流シンガー/エンターテイナーの伴奏やヴォーカル・コーチとして活躍した。1992年にニューヨークで亡くなっている。72歳だった。





【 曲目 】
(1)二人でお茶を
 アーヴィング・シーザーが作詞、ヴィンセント・ユーマンスが作曲した1924年の歌で、翌年のミュージカル『ノー、ノー、ナネット』で紹介された。また、1950年にはこの曲名をタイトルにしたミュージカル映画が作られ、ゴードン・マクレイとドリス・デイが歌った。

2)ゼア・ウィル・ネヴァー・ビー・アナザー・ユー
 1942年にマック・ゴードンが作詞、ハリー・ウォーレンが作曲して、ミュージカル映画『アイスランド』(本邦劇場未公開)でジョン・ペインが紹介した。ビヴァリーは、デビュー・アルバム『ビヴァリー・ケニー・シングズ・フォー・ジョニー・スミス』(LP-2206)に吹き込んでいる。

(3)過ぎし夏の想い出
 1946年にサミー・カーンが作詞、ジューリィ・スタインが作曲して、若き日のフランク・シナトラのコロンビア盤によって紹介された。過ぎてしまった夏の日の恋をしみじみと歌った佳曲だ。ビヴァリーのハスキーな声がよくマッチしている。

(4)モーズ・ブルース
 個性派シンガーのモガーナ・キングが作ったナンバー。このセッションの中ではもっともアーシーな仕上がりになっており、器楽的なアプローチも巧みだ。ピアノのイントロのところで、ビヴァリーの声がもれる。これも前記のルースト盤に吹き込みがある。

(5)キャント・ゲット・アウト・オブ・ジス・ムード
1942年にフランク・レッサーが作詞、ジミー・マクヒューが作曲して、ミュージカル映画『セヴン・デイズ・リーヴ』(本邦劇場未公開)で紹介された。こちらは同じルースト盤でも3枚目の『ビヴァリー・ケニー・ウィズ・ジミー・ジョーンズ・アンド・ザ・ベイシーアイツ』(LP-2218)に再録音した。

(6)飾りのついた四輪馬車
1943年のブロードウェイの大ヒット・ミュージカル『オクラホマ』からのナンバーで、作詞はオスカー・ハマースタイン2世、作曲はリチャード・ロジャース。ルースト1作目のヴァージョンでのビヴァリーはいきなりコーラスから歌い出す。

(7)スナグルド・オン・ユア・ショルダー
1943年のブロードウェイの大ヒット・ミュージカル『オクラホマ』からのナンバーで、作詞はオスカー・ハマースタイン2世、作曲はリチャード・ロジャース。ルースト1作目のヴァージョンでのビヴァリーはいきなりコーラスから歌い出す。

(8)ザッツ・オール
 1952年にアラン・ブラントが作詞、ボブ・ヘイムズ(シンガーのディック・ヘイムズの弟)が作曲したナンバーで、ナット・キング・コールのキャピトル盤がヒットしたが、最初は「セ・トゥー」という名のインスト・ナンバーだった。

(9)ボール・アンド・チェーン(スイート・ロレーン)
「スイート・ロレーン」の一部を変えて歌っているのは、女性が歌うには「ロレーン」では都合が悪いからだろう。「ボール・アンド・チェーン」は囚人を拘束する道具で、そこから転じてカミさんにベタボレの亭主を意味するが、ここでは女性の立場から「いつもピッタリ寄り添うほど愛し合っている」と歌っている。1928年にミッチェル・パリッシュが作詞、クリフ・バーウェルが作曲した。ルースト1作目でも歌っている。

(10)霧深き日
 このアルバムの中では最もポピュラーな1曲。アイラ・ガーシュインが作詞、ジョージ・ガーシュインが作曲して、1937年のミュージカル映画『踊る騎士(ナイト)』でフレッド・アステアが歌った。

(11) ゲイ・チックス (ボーナス・トラック)
このボーナス・トラックはタップダンスのレッスン用に吹き込まれたナンバーで、作詞作曲はテリー・シャンドとボブ・メリル。




(2006年5月30日 三具保夫)
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